熊本市立熊本博物館

 

 

 

 


常設展示案内

展示案内 1F 人文

波奈之丸展示室

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02波奈之丸

御座船「波奈之丸」は、藩主細川家の参勤交代のために造られた船です。平成28〜30年(2016〜18)に現存する藩主の御座所部分「細川家舟屋形」を熊本城天守閣内より熊本博物館へと移築しました。

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くまもとの歴史

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12成熟する肥後

江戸幕府が開かれると国内は次第に安定し、長い泰平の世がおとずれます。清正亡き後、肥後の大名は加藤氏から細川氏へと交代し、その治世のもと、肥後藩領内は成熟していきます。

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13学問のひろがり

8代目藩主細川重賢によって、熊本城二の丸に藩校時習館が開かれました。儒学を中心とした教育が行われ、敷地内には武芸所も併設されて身分を問わず多くの人びとが学びました。

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14躍動する民衆

幕末になると、幕府や藩によって抑圧されていた民衆たちが、その体制の揺らぎにともなって、活発に活動するようになり、さまざまな文化が多様化し広がっていきました。

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15変わる熊本

十五代将軍徳川慶喜による大政奉還、12月の王政復古の号令によって、新たに明治政府が誕生しました。日本国内では西洋の考えを取り入れた政治が急速に広がり、熊本の町並みも次第に変わりはじめました。

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16富国強兵と庶民の暮らし

明治4年(1871)、熊本に鎮台が置かれましたが、明治10年(1877)の西南戦争にて城下町の大部分が焼失しました。しかし、熊本の街は九州の商工業の中心地、官庁街、そして軍都として再び栄えていきました。

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17都市周辺に広がる農地

明治から大正にかけて、熊本では都市周辺部に農地が広がっていました。これらの農地では畑作から稲作を中心とした農業へと換わっていきました。

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18軍都・熊本と戦争

西南戦争後、軍は熊本の設備、体制などを充実させていき、第六師団が配置されました。それに伴い熊本城内外と東郊にかけて兵営が立ち並ぶようになり、軍都としての形がつくられていきました。

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03黄金文化への憧れ

才園古墳では豪華な鍍金鏡(ときんきょう)や金銅装馬具(こんどうそうばぐ)が発見されており、人吉盆地の有力者と大和政権との密接な関係が考えられています。

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19現代に繋がる暮らし

第二次世界大戦後、焼け野原になっていた熊本市も復興していき、現在の都市の原型がつくられていきます。民主化政策が進む中、市民の生活も大きく変わっていきました。

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04熊本に人がやってきた

旧石器時代に人類が海を渡って初めて日本列島にやってきました。この時代、人びとは過酷な環境の中で獲物を追い求め、たくましく生き抜きました。

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20熊本博物館の舞台裏

博物館には展示室のほかに資料を保管する部屋、調査や撮影をする部屋、標本をつくる部屋などさまざまな舞台裏があります。ここでは博物館にある施設とその役割についてご紹介します。

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05採集と狩りの時代

縄文文化の時代は約1万年以上も続きました。植物の採集や動物の狩猟、海の恵みの魚介類などで生活していたようです。この時代にはじめて土器が作られ、煮炊きによって人々の食生活は大いに改善しました。

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21熊本城遺構展示

熊本博物館は三の丸にあります。ここでは熊本博物館リニューアル工事の際に行った発掘調査の成果を展示しています。

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06稲作のはじまり

中国大陸や朝鮮半島から、再び多くの人々が日本列島にやってきました。新来の人々は新しい道具や稲作文化を伝え、次第に縄文の人々と同化していきました。

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22昔の熊本の駅

上熊本駅や熊本駅など、昔の熊本の駅の写真を展示し、それらの駅の歴史と文豪との関わりを紹介しています。

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07古墳が造られた時代

古墳時代は墓に価値を見出す時代で、大きな古墳は墓であると共に、権力者の象徴でした。熊本では菊池川、白川、緑川、球磨川など河川の流域に古墳は造られています。

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23融合展示・西南戦争の戦火を逃れた鎮守の森

ここでは藤崎台のクスノキ群について、その特徴や歴史、クスノキをとりまく自然など、様々な分野の視点から紹介しています。

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08律令時代をむかえて

各地の有力者が土地と人々を直接支配していた時代から、律令という法律を基にして朝廷が中心となって政治を行う中央集権の時代になりました。

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09武士の台頭と、その社会

古代の律令体制が次第に崩壊する中で、荘園から武士が台頭していきます。彼らは国内で勢力を伸ばし、さらに海外との交易も推し進めました。やがて戦乱が広がる中で、人びとは神仏に祈り、救いを求めました。

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10加藤清正、肥後へ

豊臣秀吉による天下統一のあと、肥後には佐々成政が領主として入りました。成政が失脚すると、肥後には小西行長とともに加藤清正がやってきました。清正は長らく争いの地となっていた肥後の復興と安定を目指します。

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11庶民の英雄・清正公

熊本では、加藤清正は「せいしょこさん」と呼ばれ親しまれています。清正の死後、その功績は物語や絵を通して庶民の間に広がりました。清正を神格化し信仰対象とした「清正公信仰」も浸透していきました。

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エントランス

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01エントランス

エントランスロビーは展示室、プラネタリウム、実験・工作室、講堂など、館内の各所へつながる空間であり、デジタルサイネージにて展示会やイベントなど様々な情報をご案内いたします。

 

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